村山籌子と村山知義の結婚式

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左の写真は、1924年6月、自由学園・講堂での挙式のあとのスナップ写真。
右は、知義がデザインした葵館のロビーでの二人。このとき籌子は、亜土(ギャラリーТОМの前館長・故人)を宿していました。

高松の千金丹本舗の長女だった籌子は、自由学園の第一期生として入学。『婦人之友』の記者としても活躍していたところへ、ベルリンから帰国した知義と出会います。

「あの人と結婚すると苦しいよ」

自由学園のミセス羽仁は、籌子にこう語ったといいます。

その言葉どおり、結婚後の知義は、前衛美術運動に明け暮れ、やがて左翼思想に染まり、三度のブタ箱入り、終戦前後には、朝鮮に亡命(正確には亡命ではないようです)。。。

そんな知義を支えながら、家事や子育ての合間に、籌子は、明るく奇想天外な童話をたくさん生み出しました。

それらの童話に、知義が挿絵を描き、『子供之友』や『コドモノクニ』誌上などに発表した作品は、いまでも多くの童画ファンの心を捉えています。

1945年の暮れ、朝鮮から帰国した知義を待っていたのは、重い肺結核を患った籌子でした。

翌年、枯れ木のように痩せおとろえた籌子は、休み休みの作業で、最期の作品『きりぎりすの かひもの』を創作します。

「これを出版して、その印税を葬式とお墓の費用にして欲しい、そのお墓は高松の父母のお墓に近くて、海の見えるところに建ててほしい」

終戦直後で経済的にきびしかった知義にこう告げた籌子は、同年8月4日、永遠の眠りにつきます。

f0046691_14313151.jpg長男・亜土は、母・籌子の思い出を綴った『母と歩く時』(JULA出版局)のなかでこう語っています。

「母の死に際は四十三歳という若さで、その準備を隅々まで黙々とととのえ、まことに見事であった」

籌子の願いは、死後まもなく知義によって果たされ、籌子がよく泳いだ屋島や女木島のよく見える丘の中腹に建てられました。2002年に亡くなった亜土も、母とともに眠っています。

また、1996年には、籌子が最も愛した大的場海岸に近い浜の町公園に、彼女の記念碑が建てられています。そこには、籌子の遺言の歌が刻まれています。

   われは
   ここに生まれ
   ここに遊び
   ここに泳ぎ
   ここに眠るなり
   しづかなる
   瀬戸内海の
   ほとりに
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by gem-art | 2006-03-25 14:31 | 村山知義
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