1 ![]() 震災直後でインクがなく、赤と紺の二色刷りですが、破壊された街の被害や復興を、二人の童画のパイオニアが丁寧な挿絵で伝えています。 武井武雄の造語「イルフ」(“古い”の逆さ言葉)が美術館の館名になっている、長野県岡谷市の「イルフ童画館」では、「村山知義の童画展」を計画中。 年末に開催予定です。 詳細がわかりましたら、またこのブログでもお知らせします。 ▲
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| 2006-09-12 16:30
| 村山知義
![]() ギャラリーТОМに残されている、知義の備忘録(日記)によると、1929年の7月8日に「ナクナッタ赤イヨウフク、完成」とありますが、出版されることなく、その後ながいあいだ原画は、弥生美術館に保管されていました。 おそらく、村山籌子の童話の挿絵として描かれたものと思いますが、文章は見つかっておらず、長男・亜土が再話を試みて、2002年に福音館書店より発行され、70年ぶりに陽の目をみることになったもの。 ギャラリーТОМの副館長でもある岩崎清が装幀を担当。原画の周囲に亀甲模様を配するなど、かなり凝った装幀ですが、原画が未完成で彩色されていない絵もあり、どちらかというと、一部の絵本ファン向けの本になっています。 と、いうこともあり、この本は増刷されないことになりました。残念。。。 でも、まだまだ書店で購入することはできると思います。 ▲
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| 2006-09-12 15:07
| 村山知義
![]() この本は、2005年6月に、東京藝術大学陳列館で開催された 「日本におけるダダ-マヴォ/メルツ/村山知義/クルト・シュヴィッタース」展の展覧会カタログに代わるものとして刊行されたもの。 本のタイトルになっている論文「村山知義とクルト・シュヴィッタース」を執筆したマルク・ダシーは、フランスのダダ研究家。 彼は、1925年に出版されたアルプとリシツキーの共著『諸芸術主義』に村山知義の名が挙げられていることから、日本のアヴァンギャルド芸術の流れをたどろうと思い立ったそうです。 ![]() その他の執筆者と論文は、松浦寿夫「遅延の贈与/意識的構成主義とは何か」、白川昌生「そして近代、さらに近代/横断する村山知義」、塚原史「根源の両義性/〈ダダ〉から〈メルツ〉へ」、田中純「喜ばしき機械/『メルツ』と資本主義の欲望」。 右上の写真は、ギャラリーТОМ所蔵の資料より、1922年にドイツへ渡った知義が下宿先で絵を描いているもので、一緒に写っている婦人は、隣室に住んでいた書記の妻。 うしろの壁に、知義が描いたと思われる絵画がかかげられていて、帰国後、これらを発展させて〈意識的構成主義〉なる主張とともに多数の作品を発表していきます。 ▲
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| 2006-08-22 14:49
| 村山知義
![]() 村山知義と映画のかかわりは、1926年公開の村田実・監督の映画「日輪」で、セットとコスチュームを担当したのがはじまり。 上の写真は、撮影所の前でのスタッフ。左から知義、3人目が村田実、一人飛んで岡田嘉子です。 知義も、自ら監督した映画を制作しようと意欲を燃やしますが、実現したのは、1936年のP.C.L.映画、『恋愛の責任』。脚本も手がけています。 ギャラリーТОМでは、映画史研究家の田中眞澄さんの構成で、2004年に『村山知義・映像往来』という展覧会を開催しました。その際、ТОМに所蔵されていた貴重な資料を田中さんに調査・検証していただき、はじめて村山知義と映画との関わりを明るみにしました。 追々、このブログでも、それらの資料の紹介もしていきたいと思います。 ▲
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| 2006-04-16 16:36
| 村山知義
![]() ![]() 左の写真は、1924年6月、自由学園・講堂での挙式のあとのスナップ写真。 右は、知義がデザインした葵館のロビーでの二人。このとき籌子は、亜土(ギャラリーТОМの前館長・故人)を宿していました。 高松の千金丹本舗の長女だった籌子は、自由学園の第一期生として入学。『婦人之友』の記者としても活躍していたところへ、ベルリンから帰国した知義と出会います。 「あの人と結婚すると苦しいよ」 自由学園のミセス羽仁は、籌子にこう語ったといいます。 その言葉どおり、結婚後の知義は、前衛美術運動に明け暮れ、やがて左翼思想に染まり、三度のブタ箱入り、終戦前後には、朝鮮に亡命(正確には亡命ではないようです)。。。 そんな知義を支えながら、家事や子育ての合間に、籌子は、明るく奇想天外な童話をたくさん生み出しました。 それらの童話に、知義が挿絵を描き、『子供之友』や『コドモノクニ』誌上などに発表した作品は、いまでも多くの童画ファンの心を捉えています。 1945年の暮れ、朝鮮から帰国した知義を待っていたのは、重い肺結核を患った籌子でした。 翌年、枯れ木のように痩せおとろえた籌子は、休み休みの作業で、最期の作品『きりぎりすの かひもの』を創作します。 「これを出版して、その印税を葬式とお墓の費用にして欲しい、そのお墓は高松の父母のお墓に近くて、海の見えるところに建ててほしい」 終戦直後で経済的にきびしかった知義にこう告げた籌子は、同年8月4日、永遠の眠りにつきます。 ![]() 「母の死に際は四十三歳という若さで、その準備を隅々まで黙々とととのえ、まことに見事であった」 籌子の願いは、死後まもなく知義によって果たされ、籌子がよく泳いだ屋島や女木島のよく見える丘の中腹に建てられました。2002年に亡くなった亜土も、母とともに眠っています。 また、1996年には、籌子が最も愛した大的場海岸に近い浜の町公園に、彼女の記念碑が建てられています。そこには、籌子の遺言の歌が刻まれています。 われは ここに生まれ ここに遊び ここに泳ぎ ここに眠るなり しづかなる 瀬戸内海の ほとりに ▲
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| 2006-03-25 14:31
| 村山知義
![]() 1931年11月、 婦人之友社家庭合理化展で公開された線画映画『三匹の小熊さん』。 ![]() 監督は、映画評論家の岩崎昶だったようです。 この映画が、VHSビデオで、「婦人之友社」から発売されています。 公開当時のものは、同社の職員によるちょっと堅苦しいナレーションで、画質も悪かったのですが、このビデオでは、女優の佐藤オリエさんが吹き替え、デジタル処理してクリーンな画像になっています。 ギャラリーТОМでも扱っております。 ▲
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| 2006-03-18 13:07
| 村山知義
![]() ![]() 1924年の10月に赤坂溜池に完成した映画館「葵館」。 村山知義は、喫茶室と客席背面の設計、緞帳の制作を受け持ちました。建築設計は、のちに知義とともに「合理派建築会」を結成する吉川清作。 またこの映画館の週報「AOI WEEKLY」の表紙を27年ごろまで担当しています。 ![]() ![]() ![]() ▲
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| 2006-03-12 16:11
| 村山知義
![]() ギャラリーТОМの生みの親、村山知義。 1922年にベルリンに渡り、翌年帰国。「意識的構成主義」なる独自の芸術宣言を掲げて、1923年の5月に、神田の文房堂で初の個展“意識的構成主義的小品展覧会”を開催。 写真は、そのときの図録です。 ![]() 驚くのは、ページをめくると、いきなり知義がオカッパ頭で踊っている写真が出てきます。 彼は、画家という一つのジャンルにとどまることを嫌い、ダンスやパフォーマンス、舞台装置、室内装飾、建築、さらには劇作・演出家、映画監督などなど、あらゆるジャンルをシャッフルして自分を表現していきました。 あまり知られていませんが、戦後には、新藤兼人・監督作品の『人間』で、刑事役としてスクリーンに登場までしています。 ![]() ▲
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| 2006-03-10 16:27
| 村山知義
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